「いいこと」の定義はわからないが、「いいことをしたのかもしれない」と思えていることが一つある。今から30年も前のことだ。当時私は中学生だった。
とはいえ、いいことをしようと思ったわけではない。しかも、全然大したことじゃない。それはただの短い会話だった。
年に一度の林間学校でのことだ。
私はこれから始まるイベントに備えて、女子部屋の入り口の段差に腰掛けて上履きを履いていた。時間に余裕があったのか、履き終えてもそこに座ったままでいたと記憶している。
私の隣には同じように上履きを履いていた女の子がいたが、その子も履き終えた後、なぜかそのままそこに居続けた。
実は、その子とは部活が同じだった。でもあまり話したことはない。別に仲が悪かったわけではなく、タイプが違ったのだ。私は絵に描いたような優等生風の外見だったし、彼女の見た目は完全にヤンキーだった。それだけ違えば、お互いに距離を置こうとするのは、まあ自然だろう。
その彼女が、不意に話し掛けてきた。
彼女は自分の上履きに目を落としたまま、こう言った。
「私、自分の名前が嫌いなんだ」
本気でビックリした。何の話が始まったのか。
彼女は続ける。
「K子なんて、私には全然似合わないよね」
えっ・・・何を言っているのだろう?
その、女の子らしいまあるいイメージの愛らしい名前は、あなたにピッタリじゃないか。
仲良しとは言えないけど、私は知っているんだ。
あなたは、外見はド派手でも、話す言葉は柔らかいってことを。
目立つことばかりするけど、人の迷惑になるようなことはしていないってことも。
笑ったときの目がとっても優しいってことも。
だから、考えるより早く、こう返していた。
「すごく似合ってるよ」
彼女はパッと顔を上げて私を見た。
「ほんと?」
「うん。K子~って感じする」
「そうかな」
「うん」
彼女は「初めて言われた」と言ってまた下を向き、「嬉しい」と何度も繰り返した。
私はただ、自分の中では当然になっていた、秘密でも内緒でもなんでもないことを伝えただけなのに、彼女がそれを知ったことには意味があったのだろう。
彼女のはにかんでいる姿が、とても嬉しかった。
努力も苦労も勇気もいらなかったのに、私はこの子を笑顔にできた。
私は、この子にとって「いいこと」をしたのかもしれないと思えた。
なお、それを機に彼女との仲が急上昇、といった漫画みたいなことは起こらない。
私たちはそれまで通りの距離感を保ったまま、卒業の日を迎えた。
廊下に一列に並び、いよいよ学校を去る直前、列を離れてあっちへこっちへ別れの挨拶をして回っていた彼女が、私のところにもやって来た。
「ありがとうね」
満面の笑顔だった。
それだけで十分だった。