あなたの名前 -02

実家から大学に通っていた頃の話だ。
片道1時間半の通学はなかなか厳しく、また無駄でもあったので、私は大学の近くで一人暮らしをすることばかりを考えていた。駅までの道のりにある信号が赤ならなおさらだ。
とはいえ、赤なので待つ。ただ待つ。
このとき私は相当気の抜けた顔をしていたと思う。ただ時間が過ぎることだけを考えていた中学時代の授業中のように。
それがよかったのかもしれない。
その人が私に気が付いた。

突然声を掛けられて驚いて左を見ると、こちらを向いて止まっているママチャリがあった。前方に小さな子どもが乗っていて、そのすぐ後ろに笑っている女性がいる。

「久し振り! 偶然だねー!」

中学時代の友人だった。

「ほらショウくん、ママのお友達だよ。キレイなお姉さんだね~」

彼女は、当時に比べればだいぶ太ってしまっていた私に躊躇いもなくお世辞を言った。私は戸惑うばかりで何も返せない。

「大学?」
「あ、うん」
「そっか~。頭良かったもんね」
「いや・・・」

言われ慣れていないことをこうも立て続けに言われると逆に感心してしまう。これが社交スキルというものか。すげえな社会人なんだな。
そうこうしているうちに、信号が青になる。

「行ってらっしゃい。またね」
「うん、また・・・」

若いママとぼうやは、ママチャリで右方向へと去って行く。
私は信号を渡った。

中学卒業後、初めての再会だった。
それもそのはずだ。別に仲が良かったわけじゃない。学校以外の場所で会うことなど、在学中にだってなかった。
その彼女が、私に、しかもだいぶ様子の違ってしまっていた私に、気付いた。
それだけでも大変な驚きだったのだが、最も驚いたのはそこじゃない。
子どもだ。
いや、子どもがいたことではない。その名前だ。
ショウくん。
どんな字か訊かなくてもわかった。彼女が「ショウ」と名付けるなら、字は一つしかない。

今なら「推し」とでも言えばしっくりくるだろうか。
当時の彼女は、自分の中にそういった何かを求めていたのだと思う。
しかし、今とは時代が違う。
それゆえ、彼女が求めていたのは言葉だった。それも、心の中心に刻むに相応しい、これぞという一語だ。
社交的だった彼女は、おそらく色んな人に同じ質問をして回っていたに違いない。それが、私にも回ってきた。

「カッコイイ言葉ない?」

そう訊かれて、何故それに行き着いたのかは覚えていない。
おそらくは、彼女が何らかのイメージを口にしたのだろう。
「翔とか」
「ショウ?」
「飛翔の翔」
私は紙に「翔」と書いた。
「飛ぶって意味だよ」
「・・・カッコイイ」
彼女がその字に一目惚れしたのは、見ていてわかった。
「これ、もらっていい?」
そう言って紙を手に取る。無論だ。
「ありがとう!」
彼女は駆け足で教室を出て行った。

その後、私はその字がどれほど彼女に突き刺さったのかを思い知ることになる。
その字は、まず机に彫られた。
彼女の腕にも刻印された。
所有物、提出物・・・あらゆるものに、あらゆるシーンで、その字はまるで彼女の印であるかのように記された。少なくとも、卒業の日までは。
けど、そのあとのことは知らない。
知らなかったのだが。

『ショウくん』

ショウ。
それが「翔」でないはずがない。ずっと大事にしていたんだ。
本物だったんだ。

まだ小さい小さい翔くん。
キミの名前は、ママの心の真ん中に、ずっとあったんだよ。
キミは、ママに愛されている。とんでもなく愛されている。
通りすがりのオバサンにもわかるほど。

『また』なんて日はおそらく来ないだろう。でもいいんだ。
その名前を教えてくれてありがとう。
打って変わって「実家から通っていてよかった」などと思っている自分が可笑しかった。

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