友達の言葉 -06

言われたときは「何それ」と思ったのに、そこから今に至るまで心に根を張り続けている言葉がある。
その言葉に対して抱いている感想は言われた当時と何ら変わらない。
ただ、それを言われた時と似た状況になるたびに思い出す。
それが役に立っているのかどうかはわからない。
ただ思い出す。

私はこんな性格なので、曖昧なことが好きじゃない。
とりわけ自分のことについては。
私はどう思っているのか、私はどうしたいのか、私はどうすべきなのか。
なので、それをハッキリさせて生きていると、周りからは気が強いとかキツイとか怖いとか思われる。
まあ、周りにどう思われるかなんてどうでもいいわけだが・・・だって自分のことだし。
だが、時によりそれは他者を巻き込む。
私が「誰を」「何を」どう思っているのか・・・それをハッキリさせることが、他者の不快や不利益に繋がることがあるのだ。
「のだ」とは書いたが、実は私はよくわかっていない。
いや、不快や不利益に繋がることはわかる。
けど、だったら何だと。
他者の不快や不利益を気にして私は明言を避けねばならないのか?
自分の感情なのに?
あるとき、友達が言った。

「『嫌い』と言う人は、心に余裕がない」

最初に書いたとおり、私は「何それ」と思った。
ついでに言うと、その場で反論もした。
そんなこと言うけどこんなだしあんなだし嫌いで当然じゃん、それでも言うなって言うの? そんなの無理、私は嫌い、と。
だけどそういうことじゃないんだわ。
友達は、嫌いと「思う」ことについては何も言っていない。
それを「言う」ことについて物申したのである。
わざわざ言う必要ないんじゃないの? 言わずにいられないなんて、心に余裕がないんだね、と。

間違っていないと思う。
白黒つけるのは勝手だが、なにゆえそれを公言してしまうのか
「私はそういうスタンスだから」と示す姿勢に、自分らしさを見出してしまっているのかもしれない。
あるいは、逃げようとしている。
何から?
それ以上の不快な情報、負の感情、厄介事から。
先手を打って批判することで、その「逃げ」を強がっているのではないか。
なるほど、心に余裕がないよね。

かといって、そんじゃみっともないから明言はしないようにしましょう、なんてことにはならない。
だって私は私だからね。
心に余裕がないのが私なんだろう。
「あなたは心に余裕がないから心に余裕を持ちましょう」
そんなことを言われて心に余裕を持てる人なんかいない。
だけど、自覚はできる。
私は心に余裕がない人なんだ。
だからつい、いらんことまで強気に発信してしまうんだ。
いや、心に余裕がないから強気なんだとは思っていないよ?
でも、そういう傾向があるということなんだろう。
その自覚は持てた。

結果として、私の言動はなんら変わっていない。
だけど、私の心の中にはいつでも友達の言葉がある。
私が何かに対して「嫌い」を発信しているときには必ず思い出す。
また言ってるぞ、相変わらず弱いなおまえは、と思っている。

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