友達の言葉 -07

気持ちが不安定になる年頃ってのがあるんだろう。
グラグラしていて、過敏で、脆くて、何かが変なのだ。
どうもおかしい。
けどどうにもできない。
その頃のことで真っ先に思い出すのは、自分がそういう状態になったという事実。
感じたツラさではない。
原因に至っては、「なんでそうなったんだっけ?」と考えてようやく思い出す程度だ。
つまり、そういうことなんだと思う。
若き日の私は、冷静な心や大人の目で顧みれば、何てこたぁない、大したこっちゃないことで、とことん墜ちたのだ。

具体的にどういう状態になっていたかと言うと、死んでしまいたくなっていた
高校 3 年生の秋である。
進路を決めなければならない時期で。でも私は何にも興味がなくて。
なんにもないのに「何か出せ」「何か選べ」と迫られ続ける日々は、ただただツラかった。
今なら外野の追い立てなどスルー一択だが、当時の私はまだ若かったし今よりは素直でもあったので、それができなんだ。
それゆえ、ツラさは劣等感へと変わっていったのだと思う。
「自分には何もない」「存在価値がない」「生きていても仕方がない」と。

その日の夕方、私は 2 階にある自室のベッドで膝を抱えていた。
「私なんかいらない」「もう死んでしまおう」
そう決めて涙を流していたとき、階下から親が「あなたに電話よ、そっちで取って」と言ってきた。
部活以外で顔を合わせることのない同期の男友達からのようだった。
先に言っておくが、恋愛要素は一切ない。
私はさすがに驚いて、子機を自室に持ち込んだ。
「どうしたの?」そう訊くと、彼は「用事があるわけじゃないんだけど」と答え、こう言った。

「どうしてるかなって、ふと思ったんだ」

瞬時に、ボロボロと涙が溢れた。
どうって、今、私は死のうと思って・・・
そんなときに、あなたは、ふと私のことが頭に浮かんだって言うの?
彼は続ける。
「そしたら、電話をかけてた」
私は涙が止まらない。何も返せない。
いや、「何もしていない」とか「ぼーっとしてた」とか言ったかもしれない。でも覚えていない。
彼は、話題を振ることも詮索することもせず、「声が聞けて安心した」と笑ったあと、「また部活で」と言って電話を切った。

このタイミングで。こんなタイミングで。
こんなことがあるのか。こんなことがあっていいのか。
嘘のようだ。
嘘のようだ。
私は電話を切ったあとで、声を漏らして泣いた。

今でも、何の力が働いたのかと不思議でならない。
私のこれまでの人生の中で、最も奇跡に近い出来事だったと言える。
この電話がなかったら、私は突発的に取り返しのつかない行動に出ていてもおかしくはなかった。
にもかかわらず、たった一言で救われてしまった
「自分なんか必要ない」? 「生きてたって意味ない」?
何を言う。
私のことをふと思い浮かべてくれる人がいるじゃないか。
私の声を聞くためだけに電話を掛けてくれる人がいるじゃないか。
親兄弟や親戚と違って、私のことを気に掛けることが「当然ではない人」が気に掛けてくれたという事実は、その時の私にとって、とても、とても、とても大きかった。

「あの時助かったんだよ」なんて話を、彼にしたことはない。
彼からの電話も、それが最初で最後だった。
今では居場所さえわからない。
ひょっとしたら彼は、私に電話をしたことも覚えていないのではないかな。
もしそうであるなら、いつあるとも知れない同窓の席で、「そんなことがあったんだよ」と言ってやりたい。
そして酔いに任せて、いっぱい、いっぱい、いっぱい、感謝を伝えたい。

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弱い人

自分から縁を切った人が、一人だけいる。
仲が悪かったわけじゃない。彼女の良いところもたくさん知っている。
一緒にいて楽しかったし、随分笑い合った。
彼女は作業の手を抜くことはなかったし、新しいことを覚えるのも早かった。
また、彼女は料理が得意で、その知識には何度も助けられた。

私と彼女は仕事仲間だった。
同じ業務を曜日で担当していたため、普段顔を合せることはない。
ただ、締め日だけは机を並べて働く。会うのはその時だけだ。
私はその日が好きだった。
毎回、当月におけるお互いのしょうもないミスを指摘し合って、どうしてこんな阿呆ができたのかと腹筋も顔筋も限界まで酷使するのが愉快でならなかった。

けれど、彼女は無理をしていたのかもしれない。
あるいは、途中から何かが変わってしまったのだろう。

あるとき、彼女から電話がかかってきた。
「明日代わってもらえないかな」
体調が悪いと言っていたような気がする。
これといって思うことはない、代われるのだから代わってやる。
ところが、そう日の経たないうちにまた電話がくる。
「明日代わってもらえないかな」
やはり具合が悪いと言っていたように思う。
私は、代われるから、代わる。
この時の私の心境は、正直に言えば「また?」だ。
体調を心配したりはしなかった。
だって私は優しくないから。
ところが、次の電話は「明日代わって」ではなかった。
「しばらく代わってもらえないかな」
通院だの入院だの言っていた気がする。さすがに驚いてあれこれ訊いたはずだが、具体的な理由はまったく覚えていない。
「しばらく」がどのくらいなのかも曖昧なままだったと記憶している。
そうしてその後、彼女は音信不通になった。

どのくらいの間そうだったか・・・。
私は出勤日数が倍になり、収入が扶養控除の枠を超えてしまうことが気になり始めていた。
上司に、事あるごとに「どうなっていますか」と問うが、なしのつぶてだと返される。
そんな折、彼女は突然戻って来た。

締め日、彼女は以前と何も変わらない様子で、「ごめんね~」と仕事を始めた。
健康面のことに首を突っ込むのもどうかと思ったので、
「具合が悪かったんだろうけど、仕事なんだし、連絡はしたほうがいいよ」
と言うと、「うん、そうだよね」と返された。
それで「元通り」にされる。
釈然としないものがあった。

が、「元通り」も束の間。
休日にくつろいでいると、職場から電話がかかってきた。
「彼女が来ない。今すぐ来れないか」
無断欠勤だ。
私は急遽出勤した。
その日の夜、彼女から電話がかかってくる。
「ごめんね。母親の具合が悪くて」
「連絡くらいはできるでしょう」
「ごめんね」
彼女は、ただ「ごめんね」を繰り返す。
うんざりして、一言でも「いいよ」と言うと、途端に別の話が始まって辟易とした。
「休むなとは言わないけど、連絡だけはちゃんとして」
「うん。そうだよね」
もう、悪い予感しかしない。

私は、休みの日でも、職場から電話が来るのではないかと落ち着けなくなっていた。
そうして、思った通り電話は鳴るのだ。
次の休みにも、その次の休みにも。
その間も、夜になればまた彼女から電話がかかってきた。
最初のうちは取ったと思う。
彼女はとにかく謝って、「迷惑かけてごめんね」「もうしないから」「友達でいて欲しい」「仲よくして欲しい」と言う。
けれど、舌の根の乾かぬうちにまた同じ事が起こる。
何度耐えたか忘れたが、ついに私は、夜の電話を取らなくなった。

ある夜、いつもより早い時間に帰宅していた旦那が、電話に出てしまった。
当然ながら私に継ごうとする。
私は、「出ない」と言った。
旦那は驚いたが、継がずに対応してくれた。
彼女とどういうやり取りをしたのか、詳しいことは聞いていない。
だから、何が決め手になったのかはわからない。
ただ、それ以降、彼女からの電話はなくなった。

職場も、彼女をクビにした。
まあ、そうだよなと思う。
彼女とはそれっきりだ。

ひょっとしたら、彼女は何らかの助けを求めていたのかもしれない。
だが、それは発信されなかった。
発信されないSOSなど、私は拾わない
発信できないやむを得ない理由があるならアンテナも張ろうが、そうでないなら捨て置く。
何も、私は「助けてやらない」と言っているわけではない。
助けが必要なら求めろと言っているのだ。
例え何らかのハンデがあっても、頑張って自尊心を高めている人たちがたくさんいるということを私は知っている。
頼まれもしないのに手助けをするのは、エゴじゃないのか。
だから私は助けない。
求められるまでは。

「あんたは強いから、弱い人の気持ちがわからないのよ」
むかし、母親にそう言われたことがある。
確かに、気持ちはわからない。
とりわけ、私にはできないことを、時により平然とやってのける心理は全くわからない。
「弱い人」は、自分を護るために、他者の心を傷付けることがある。
傷付ける勇気はあっても、SOSを出す勇気はない?
そんな気持ち、わかるはずがない。

私には、SOSも出せない相手に「友達でいて欲しい」と伝える気持ちもわからない。
「仲よくして欲しい」と思う相手を繰り返し傷付けてしまえる心理もわからない。
言うなれば「弱い」がわからない。
だって、こんなにも強いじゃないか。

私は、彼女と縁を切ったことを後悔はしていない。
ただ、そうなってしまったことは、今でも残念に思っている。
何を抱えていたにせよ、一緒に笑い合った彼女は、本物だったと思うので。

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スペクトラム【毒】

スペクトラムという考え方(「連続している」という考え方)は、発達障害について学んでいるときに知ったんだが、最近はテレビなどでもよく耳にするようになった。
直近では、織田裕二がMCをつとめる『ヒューマニエンス 40億年のたくらみ – NHK』という番組で取り上げられているのを見たな。
それによると、今ではなんと性別でさえスペクトラムであるということがわかってきているのだそうだ。衝撃的!!
何が衝撃って、物理的にスペクトラムってことなんだよ。
男か女か、「心はともかく、身体はどっちかだろう」って思うじゃない?
それが、そうじゃないって言うんだから驚くでしょ。

つまりさ、身体でさえ「100%男」「100%女」てわけじゃないのに、性格だの特性だのが「普通」と「異常」の二択であるわけがないよな。
発達障害も、セクシャルマイノリティも、「100%正常」とのグラデーションなんであって、どこからがどうだとか明確に線引きできるものじゃないってことだよ。

ちなみに、発達障害だと「グレーゾーン」てのがある。
「ちょっと変わってる」とか「個性」で済まそうと思えば済ませられちゃうレベルだから、そのあたりの位置にいる人は、発達障害というレッテルを貼るのか貼らないのかということで悩んだりする。
あえてレッテルと書いたのは、世間の受け止めがそうだからだよ。そんな国だからな、この国は。
だけどおまえら、言ったら全員「100%健常者」ってわけじゃないからな?
スペクトラムなんだぜ? その度合いが濃いか薄いかの差でしかない。
自分は真っ白だと思い込んで、黒っぽいのを差別するとか、何様だよ?
あんたは実はグレーなのかもしれないんだよ?
というかそもそも、なんで白が偉いことになってんだよ?

多様性ってのはさ、生物として考えたときには、種の存続に欠かせない「強み」なんだよ。本来。
セクマイだってそうかもしれない。
将来的には「男」を作るY染色体が消滅すると言われている中で、いわゆる「普通」だけを尊重することが人類にとってプラスであるとは考えにくい
個人間での好き嫌いは勝手にしたらいいけど、社会としては、その「普通」って分類をとっとと取っ払ったほうがいいんじゃないですかね?

最近私は、なぜかそういった話題を目にする機会が多く、ヘテロとかフォビアとかポリアモリーなんて言葉を知るに至ったんだが、実に興味深いよ。
「私にもそういう要素あるな」「ひょっとして私それか?」って思わされるもの。
でも、そりゃそうだよなあ。スペクトラムなんだから。

ひとりひとりが自分のことをもっと深く知れば、世間にはびこる差別意識は大きく変わってくるんじゃないかしらん?
などと思う今日この頃です。

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Twitter

今朝、Twitterをチェックしていたら、気になる呟きがリツイートされていた。
引用するのもアレなんで要約すると、
「流行り物には手を出すな。君子危うきに近寄らず。隣人を愛せ。それがTwitterを長く楽しむコツである」
といったところか。
1.4万「いいね」されていたので、多くの人が同じように感じているのだろう。
でも、私はそうは思わなかった。
そして今更ながら気付いてしまったのだ。
私はTwitterを長く楽しみたいと思っているわけではないということに。

そもそも、なんでTwitterを始めたかというと、たまたまである。
好きな漫画がアニメ化されることになり、その情報を得たくて検索していたら、引っかかってくるのがツイートばっかりだったのだ。
昔よく見た、熱意あるどなたかが個人で作り上げたファンサイトっぽいものを探していた私には、情報の断片があるかどうかもわからない個人の呟きは邪魔でしかなかったんだが、今はそういう時代なんだよね。
情報はTwitterに公開され、Twitterで広がっていく。
最新情報を得るには、公式アカウントをフォローしなければならない。
それはつまり、Twitterを始めにゃならんってことだ。
かくして私は、やむを得ずデビューした。
アニメの情報を収集する中で、二次創作などを頑張っておられる方々もフォローするなどしてきたが・・・正直、アニメと関係ない呟きや、お互いを持ち上げて褒めちぎるママ友みたいなやり取りに辟易としてきた今日この頃・・・。
そんな中での、冒頭のリツイートである。

私にとってTwitterは情報源だ。
言わば、流行り物に手を出すためにやっている。
従って「流行り物には手を出すな」は、私にとっては根本否定に等しい。
また、素敵なイラストや考察に感心して「いいね」をしたり、「これは!!」と思ったものをリツイートすることはあっても、発言はほとんどしない。
たまに「発言したろか」と思うのは、持論などを述べている人に対する反論だったりするので、「君子危うきに近寄らず」は、実に私らしくない。
それから、私はママ友のような関係性には興味がないので、思ってもいないその場しのぎの慰めや応援などしようとも思わない。
従って「隣人を愛せ」は、不可能。
なるほど、私はTwitterを長く楽しむことはできないようだ。
というか、できなくていいや。
むしろ、できないほうがいいような気もする。

そう思い至った今日は、奇遇にも11日で。
うちにあるスティーブ・ジョブズの日めくりカレンダーも、当然だが11枚目だった。

スティーブ・ジョブズ日めくりカレンダー

 Do you want to really accomplish it ?
「やりたいことは、本当にこんなことか?」

正直、ギクッとした。
Twitterを始めてからというもの、私は目の前のものに流されるだけの日々を送ってきたように思う。
先を見据えもせず、ただなんとなく生きている、そういう時間を積み重ねてきてしまった。
ぐうの音も出ない。
ついでなので、ジョブズの名言をもう一つ。

Everyone here has the sense that right now is one of those moments when we are influencing the future.
「誰もが、今この瞬間が未来に影響を及ぼす一瞬であることを知っている」

今一度考えねば。
私が欲している情報は、本当に私に必要なものなのか。
Twitterに時間を奪われてでも手に入れる価値のあるものなのか。
Twitterを長く楽しみたいと思っているわけではないということに気付けた今がチャンスだ。考えろ。

以前、フォローしていた字書き様が突然アカウントを消したことがある。
愚かな私はそれを受け入れられずに嘆いたが、今思えば、彼女が正しい。
文才だけではなかったんだな。
感服。

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祖父

私の父方の祖父は、画家だった。
が、結構前に死んでしまった。
最後はボケて徘徊を繰り返し、病気もあって施設に入れられ、そこで誰のこともすっかり忘れて、逝った。
それなりに悲しかった。
私はそんな程度の人間だ。

身内に画家がいるという人はあまり多くないだろう。
画家として生きていける人など、さほどいないからかもしれない。
では祖父はそれが出来ていたのかと言えば、全く出来てはいなかった。
祖父は生活に関わる一切を放棄し、ただ好きに生きた人だった。
「それを支えた人がいたからだ」と言いたいところだが、祖父の場合はそうとも言いがたい。
とんでもなく不衛生で、身勝手で、我が強く、頑固で、生活力はゼロ、しかしながらプライドだけはクソ高い厄介なジジイだったので、ミーハー心で結婚した祖母が面倒見きれるはずもない。
ゆえに祖父の生活は、言うなれば在宅ホームレスのようであった。
「芸術家」なんてカッコよさげだが、実態はひどいものなのだ。
けど、私は祖父を嫌いにはなれなかった。
祖父の才能は、すべてのマイナス要素を黙認させた。
それだけ、祖父の絵は素晴らしかったのである。

祖父は、油絵の写実画家だった。
正確には、動物画家だ。
無論、なんだって描けるわけだが、受ける仕事はすべて動物の絵だった。
祖父は仕事をする必要があったわけではない。
家族も「しなくていい」と言っていた。
「僅かばかりの金のために描きたくもないものなど描かなくていい。自分の描きたいものだけ描いてくれ」
盆や正月などで集まるたびに身内はそう言ったが、その思いは最後まで届かなかった。
祖父は金が欲しかったのだ。
鳩のエサや葉タバコ、左翼的な活動をするための金だ。
祖父は第二次世界大戦で中国へ連れて行かれ、そこで銃撃戦を体験した。
左翼と聞くと物騒な感じもするが、戦地での祖父の気持ちを思えば、その決意に口を挟むことなどできるはずもない。
元よりぐうたらな祖父は、つまらない仕事と活動で手一杯になり、本当に描きたい絵など、おそらく片手で数えられるほどしか描かずに死んでいった。

中学に上がるまで、私はよく祖父の部屋に通っていた。
今にして思えば、あのゴミ溜めよりひどい部屋によく入れたと思う。
何をしていたのかは、あまり思い出せない。
ただ、万年布団、小さなテレビ、画材、木製のパレット、貝殻、描きかけの絵、胸像、曇りガラスなど、そこで目にした様々なものを鮮明に覚えている。
部屋へ行くと、祖父はよく、鳩にやるエサを準備していた。
喉に詰まらせてはいけないからと、乾燥トウモロコシをペンチで砕くのだ。
毎朝同じ時間に、必ず同じ服、同じ手提げで橋の下へ行き、鳩にエサをやる。
私は、一時それに同行していた。
何日も続けると鳩が私を覚え、橋に辿り着く前から出迎えたり、私の手から競ってエサを食べるようになった。
祖父でなければ、誰がそれを私に体験させただろう。

このみかんの木にはアゲハチョウが卵を産みに来るから、実はならないけど大事にしなくちゃいけない。
葉の裏に卵がある、これは赤ちゃん幼虫、こっちが成虫、これがサナギ。
あれはヤブカラシといって、これがあるとアオスジアゲハが来るんだよ。
他に誰がそれを教えてくれた?

黒糖のおいしさ、ライチという食べ物、的の狙い方、戦時中の暗号、磨りガラスにセロハンテープ、キジバト、日本タンポポ、モノらしさ人らしさ、褒め殺し。

それなのになぜ私は、描かせてあげなかったのだろう。
描かせてほしいと何度も言われていたのに。
「おじいちゃんのモデルは止まってなくていいの。動いてていい。印象で描くから」
大人になる手前の、不安定な顔を描きたいと。それは今しかないからと。
なんで私は描かせてあげなかったのだろう。
「約束だよ」と何度も言われたのに。
あんなに通っていたくせに。

中学、高校というのは、気難しい時期なんだろうと思う。
その自覚はなかったが、そうでなければこの裏切りを説明することはできない。
気乗りしなかった。おそらくはただそれだけのことだ。
それだけのことのために、生涯悔やみ続けるのだ。

私の父は、「画家の息子」として見られることに嫌気が差して、絵を描かなくなったという。
「努力の結果を血筋のおかげと評価されてたまるか」と。
尤もだと思う。
だが、私は違う。
私は嬉しい。
「絵が上手いのは、おじいちゃんが画家だからだね」
そうだよ!
「おじいちゃんに描いてもらえば?」
そうだね!
「プレッシャーじゃない?」
とんでもない!
私は、一個人としてその才能をリスペクトしているんだ。
だから、それは私の誇りなんだよ。

おじいちゃん。
見舞いにも行かずごめんね。
でも、私が誰かもわかんなくなってるおじいちゃんに会ったほうがよかったのかどうかは、今でもわからないままだ。
私はその程度の人間なんだよ。
でも、おじいちゃんは多分そんなことは気にしない。
「みんな同じなんて一番つまんない。右へ行けって言われたら左へ行っちゃうね」
人としては決して倣えないけど、そういう生き方が私は好きだった。

ちょうど「不安定」な頃合いの息子を見ていて思うんだ。
そんな身内がいたことを、この子は知らないんだなぁって。
健在であったなら、きっとこの子を描いてもらったのに。
そうして、その特異な感性に触れて、目の前でサラサラと自分を写す鉛筆に魔法を掛けられてほしかった。
人と違うってすごいことなんだと知ってほしかった。
その血が自分にも流れているんだと、ワクワクさせたかった。

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友達の言葉 -06

言われたときは「何それ」と思ったのに、そこから今に至るまで心に根を張り続けている言葉がある。
その言葉に対して抱いている感想は、言われた当時と何ら変わらない。
ただ、似た状況になるたびに思い出す。
それが役に立っているかはわからない。
ただ思い出す。

私は曖昧なことが好きじゃない。
とりわけ自分のことについては。
私はどう思っているのか、私はどうしたいのか、私はどうすべきなのか。
なので、それをハッキリさせながら生きていると、周りからは、気が強いとかキツイとか怖いとか言われる。
まあ、周りにどう思われるかなんてどうでもいいんだが・・・だって自分のことだし。
でも、それは時により他者を巻き込む。
私が「誰を」「何を」どう思っているのか・・・それをハッキリさせることが、他者の不快や不利益に繋がることがあるのだ。
「のだ」とは書いたが、実は私はよくわかっていない。
いや、不快や不利益に繋がることはわかる。
けど、だったら何だと。
私は、他者の不快や不利益に配慮して明言を避けなければならないのか?
自分の感情なのに?
あるとき、友達が言った。

「『嫌い』と言う人は、心に余裕がない」

最初に書いたとおり、私は「何それ」と思った。
ついでに言うと、その場で反論もした。
そんなこと言うけどこんなだしあんなだし嫌いで当然じゃん、それでも言うなって言うの? そんなの無理、私は嫌い、と。
だけどそういうことじゃないんだわ。
友達は、嫌いと「思う」ことについては何も言っていない。
それを「言う」ことについて物申したのである。
わざわざ言う必要ないんじゃないの? 言わずにいられないなんて、心に余裕がないんだね、と。

間違っていないと思う。
白黒つけるのは勝手だが、なにゆえそれを公言してしまうのか
「私はそういうスタンスだから」と示す姿勢に、自分らしさを見出してしまっているのかもしれない。
あるいは、逃げようとしている。
何から?
今以上の不快な情報、負の感情、厄介事から。
先手を打って批判することで、その逃げを強がっているのではないか。
なるほど、心に余裕がないよね。

かといって、じゃあみっともないから明言はしないようにします、なんてことにはならない。
だって、私は私だから。
心に余裕がないのが私なのだろう。
「あなたは心に余裕がないから心に余裕を持ちましょう」
そんなことを言われて心に余裕を持てる人なんかいない。
だけど、自覚はできる。
私は心に余裕がない人なんだ。
だからつい、いらんことまで強気に発信してしまうんだ。
いや、心に余裕がないから強気なんだとは思っていないよ?
でも、そういう要素もあるということなんだろう。
その自覚は持てた。

結果として、私の言動は変わっていない。
だけど、私の心の中にはいつでも友達の言葉がある。
私が何かに対して「嫌い」を発信しているときには、必ず思い出す。
また言ってるぞ、相変わらず弱いなおまえは、と思っている。

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友達の言葉 -05

言われてハッとする言葉もあれば、ゾッとする言葉もある。
今回は後者。

といっても、言われたのは私ではない。
何があったかと言うと、こうだ。
大学時代の定期テスト前。
教授が試験の範囲などについてあれこれ説明していたんだわ。
そして最後にこう言ったのね。
「A4 の紙 1 枚だけ持ち込みを許す」
つまり、その紙にびっしり勉強して持って来いよってことだ。
教室がざわついた。
私はふと疑問に思った。
・・・裏面も OK ?
そのとき、学生の一人が教授に質問をした。
「紙は両面使っていいんですか」
直後、私の後ろに座っていた友達が、小声でブチ切れた。

「余計なことを!」

私は、ちょうど疑問に思っていたことをタイムリーに質問してくれた誰かさんに、「よくぞ訊いてくれた」くらいの気持ちでいたので、その言葉に驚いた。
友達の怒りは収まらない。
「当然両面だよ! 当然両面なのに、わざわざ訊いて『片面で』って言われちゃったらどうしてくれんの!?」
私はようやく理解した。
と同時にゾッとした。
それを質問していたのは私だったかもしれないのだ。
というか、たぶん訊いてた。
あ、あぶねーーー・・・!!

頭の回転が速い人は、理解力が違う
理解が及ばず、そういうことに気付けない私は、今までそういう人たちを相当イライラさせてきたのだろう。
ひょっとしたらこの友達も・・・。
こんな機会でも、その現実に気付けてよかったと思った。

この時は結局、両面で可ということになったけど、質問された教授が「あー、そうねぇ」と考える素振りをみせたときの、友達の「嘘でしょ!? 嘘でしょ!?」という祈るような呟きは忘れられない。
ほんと、いらんこと口にするもんじゃない・・・。

ルールに沿おうとするのは悪いことではないんだが、上手く解釈して賢く生きようとしている人たちの足を引っ張ってはいかんよなぁ・・・悪用は別として。
これは小さなことだったけど(当時は一大事だったが)、私は学んだよ。
とりあえず踏みとどまれ。おまえの読みは浅いぞと。
先に質問してくれた誰かさんには感謝している。

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友達の言葉 -04

私には、めちゃくちゃ絵が上手い友達がいる。
絵が上手いというだけでは説明がつかないかもしれない。
彼女は、十代前半にして、1 枚の画用紙から「長い階段の途中でガラスの靴が片方脱げてしまったシンデレラ」を、下書きもなくハサミで切り出してみせるような子だった。

当時は、私も暇さえあれば絵を描いて遊んでいた頃で、友達に見せて面白がったりしていたのだが、女の子というのは面倒なもので、誰もがお世辞を言ってくれちゃうのだ。
「上手だね」
返す言葉は決まっている。
「そんなことないよ」
それで丸く収まる。
いわゆるお決まりのパターン。崩しちゃいけないやつ。
だけど、それが常套句だとわかってはいても、それでも私は彼女に言わずにはいられなかったのである。
「上手だね」と。
すると彼女はこう答えた。

「ありがとう」

か、
かっけぇーーーー!!
衝撃だった。
褒め言葉を謙遜しないことが、こんなに格好いいとは
そうだよ、褒めてくれたんだから、喜べばいいんだよ!
喜んでもらえた私のほうが、なぜだかものすごく嬉しくなっている。
もっといっぱい褒めていい!?
つか褒めさせろ!! あんためっちゃ絵うまいんだよ好きだ!!
実に幸せな時間だった。

これを、私も真似できないだろうか。
褒め言葉を喜ぶんじゃなくて、褒めてくれたことを喜ぶのであれば、例え「そんなことないよ」と答えるのが妥当な実力であったとしても、問題ないのでは?
そう自分に言い訳をして、次の機会に「ありがとう」と返してみた。
すごく気分がよかった。

今は Twitter などで自分の絵をお気楽に投げて、ほいほい褒められて、ありがとうございまーす! なんて返すのをよく目にするから、いい時代になったなぁと思う。
ガチな褒め言葉に対して、謙遜じゃなくて感謝を示す絵師さんを見ると、すごく嬉しくなる。
お世辞と謙遜というのはある意味文化で、それが日本らしさでもあるから、「美しい」とされるのもわからなくはないんだけど、そこからは何も生まれないと私は思うんだよね。
「褒めてもらえた」「褒めてよかった」って素直に喜び合うことのほうが美しいし、生産的なんじゃないのかな・・・。
短絡的?

まあ、難しいことはわからない。
ただ、私は幸せでした。
ありがとう!

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友達の言葉 -03

私はこんな性格なので、一人でいることがものすごく好きだ。
人が恋しくなることはないし、ぼっちは寂しいなどと思うこともない。
かといって、人が嫌いというわけでもない。
ただ、何事も自己完結というか、人の存在を計算に入れていないというか、とにかく、私の中では「人との時間」というものがあまり重要ではなかった。

そんな私に、彼氏ができた。
大学時代のことである。
ほぼ同じタイミングで一人暮らしを始めていた私は、一人の快適さに毎日打ち震えていたわけだが、それがそうはいかなくなったのだ。
なんせ彼氏だから・・・だいたい一緒にいるわけで。
一緒にいるのが楽しい反面、どんどんストレスが溜まっていってしまったんだよね・・・。
堪りかねた私は、友達にこう愚痴った。
「全然自分の時間がとれないんだよ」
友達は即答した。

「一緒の時間が自分の時間なんじゃないの?」

鈍器で頭を殴られたような衝撃、とはよく言ったもので、それを実感した瞬間だった。
絶句。
なんも言えねえ・・・。
だってその通りだ。その通り過ぎる。
そういう生活を選択したのは私だ。
それがいやなら付き合わなければよかったではないか。
強制されたわけじゃなし。

実際、その友達は「こいつ何言ってんだ?」と思っていたらしい。
立場の違いはあるにせよ、見え方や感じ方って、人によってこんなにも違うんだなぁ・・・。

なお、この名言の影響力は今も絶大で、「私の時間・・・」とつい悲観してしまう私に、「その時間も私の時間」と思い直させることに成功し続けている。
ただ、前述したとおり、私は元来一人でいることが大好きだ。
ゆえに、「自分だけの時間」をゴリ押しすることも少なからずある。
しかしまあ、十分には得られない。
それでも落胆せずにいられるのは、「一緒の時間も自分の時間なんだし」と自分を言い聞かすことができるこの言葉のお陰だろう。
いや。にほかならない。

ちなみに、知り合いの主婦にもこの名言を教えてあげたら、私同様、絶句した。
「自分の時間がない!」と常にイライラしていた彼女が、思いも寄らない真実を知らされたとしか表現できない驚愕の表情で固まったときは、「だよね」と思った。
彼女がこの言葉を知ったことは、彼女だけでなく彼女の家族にとっても有益だったに違いない。私いいことした。

こういう言葉って、同じ立場の人同士で集まって愚痴ったり慰めあったりしていても絶対に出てこないと思うんだよね。
現に、この名言をくれた友人は独り身だったし。
持つべきものは、違う状況に身を置く、別視点を有した友人だよなぁとつくづく思う。
本当にありがたい。

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友達の言葉 -02

仲のいい人と一緒にいても、会話が続かないときがある。
気まずさから無理に話題を振ったり、逆に無理に話題を振られて碌な返事ができず、もっと気まずい思いをしたりする、なんてのはよくあることだ。

大学時代に、よく一緒に帰る子がいた。
同じ電車に揺られる 1 時間弱を、話術に長けているわけでもない私が会話を途切れさせずに乗り切るのは不可能に近い。
それでも私は頑張ったと思う。
ある程度の期間は、沈黙することなく話をし続けられていたと記憶している。

だが、やはり無理があった。
ある時、本当に、何にも、話すことがなくなってしまった。
気まずい。ものすごく。
何か言わなくちゃ。どうしよう。
それで、苦し紛れに口に出したのがこれだ。
「沈黙しちゃったね」
そう言われて花咲く話題とは何か。
言ったほうも言われたほうも、苦笑いして更なる沈黙に甘んじるしかない自滅的発言だ。
ところが、私の友達は違った。
表情を一切変えることなく、当然のていでこう言った。

「沈黙が気になるのは、本当の友達じゃない」

そっ・・・それは、私が本当の友達じゃないということ??
いや、そうではない。
「私は沈黙など気にならない」と言ったのだ。
こんな愛に満ちた返しがあるか!?
私は感動して語彙が死に、「そうだね」と答えることしかできなかったが、それでよかったのだろう。
それ以降、私とその子の 1 時間弱は、話すときは話し、なんとなく黙ればそのまま黙り、気が向いたらまた話す、というとても自然な時間になった。
ストレスフリー!
私はますますその子が好きになった。

ちなみに、この言葉は他の友達との沈黙にも有用だった。
おかげで、私はだいぶ気が楽になった。
ただ、相手が楽になったかどうかまでは知らない。

また、この言葉は離れている友達との沈黙にも役立った。
大丈夫大丈夫、友達だもの。
まあ、連絡しないことを正当化していると言われれば否定はできない。

・・・何かおかしいな?

念のため記しておくが、この言葉の真意は相手への親愛と信頼であり、その真価はそれが相手に伝わってこそ発揮されるということに、疑いの余地はない。
それを独り善がりの助長に用いる私の浅ましさたるや。
よくこの言葉を贈ってもらえたものである。
どうか、これからも末永くよろしくね・・・。

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