習い事【毒】

私はピアノを習ってきた。
11年くらいやったと思う。
幼稚園からだったので、みるみる上達した。
しかし、ピアノを好きだと思ったことはない。
だから、辞めたあとはほとんどピアノに触っていない。
そうして11年の努力が水の泡になっても何も思わない。
だって、大事じゃないから。

そもそものきっかけは、母親の嘆きだった。
「他の子は習い事をしているのに、あんたは何もしていないね」
私はその言葉を良くないイメージで、つまり、責められたかのように聞いたことを覚えている。
だから、つい言ってしまったのだ。「じゃあピアノを習うよ」と。
何故ピアノなのか。
たまたま隣に先生がいたからだ。

私はこの先生から、スパルタ教育を受けた。
レッスン時間も日数も、年を追うごとに増えていった。
一番ひどいときで、毎日2時間レッスン
音大を目指していたわけではない。
ピアノが好きで嵌っていたわけでもない。
単に先生が超熱心だったというだけだ。
なぜ私の親は、言われるがままこんな無謀なスケジュールを許したのだろう。
そのおかげで、私には常に時間が足りなかった。
友達と遊んでいても、誰よりも早く離脱しなければならなかった。
好きなテレビ番組をいつも最後まで見られなかった。
さらには、レッスン以外にも自主練習をするように言われ、その様子をチェックされているのだ・・・隣だから。
それで、怒られる。
「あんな弾き方をしていたら悪い癖がつく」
自分の好きな曲を弾いていても怒られる。
「そんなものを弾く暇があるなら、練習をしなさい」
とにかく不自由だった。

体育で突き指をすると、すごく嬉しかった。
喜々として報告し、堂々とレッスンを休んだ。
また、試験期間中も休みをもぎ取った。
私は試験が大好きだった。

ピアノが弾けるようになるということは、悪いことではない。
特技として役に立つし、難しい曲が弾けるようになれば、自尊心も高まる。
11年続けたことで、私にもそれなりの技術が身についた。
しかし、私は最も大事なことを教えてもらえなかったのだ。
音楽は楽しいということ。楽しむものだということを。
私がピアノに向かうときには、常にマイナスの気持ちがあった。
楽しいとは真逆の感情だ。
これは私の時間を奪うもの。私の自由を奪うもの。
好きになどなれるはずがない

「好きこそものの上手なれ」という言葉があるが、好きでなくても時間をかければある程度は上手になってしまうというのが現実だ。
そこで私はこう言いたい。
「好きこそものの大事なれ」と。
好きであることの強みは、その過程を楽しめるところにあると思う。
上手になるために費やす多大な時間を楽しめるか否か、その差は非常に大きい。
私は楽しいと思えなかったばっかりに、11年積み重ねてきたものを失っても惜しむこともできなかった。
私にとって大事な時間ではなかったから、思い入れがなかったのだ。
私の11年はなんだったのだろうかとさえ思う。
せめて「ピアノは楽しい」と思わせてもらえていたなら、辞めたからといって弾かなくなることはなかっただろうし、趣味のひとつして私の人生を豊かにしたことは想像に難くない。
とても残念だ。

これから何か習い事をしよう、させよう、と思っている人には、是非とも参考にしてもらいたい。
まずは、楽しんで
そこから始めて。

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いじめっ子【毒】

私は昔、いじめっ子であったらしい。
自覚はない。
ただ、強くはあった。
誰ともつるまず、ひとりで何にでも立ち向かい、闘える子だった。

気に食わない子がいた。
とにかく何にもしない。
宿題もしない、努力もしない、反省もしない。
しかし自意識だけは過剰にあるのか、自分を可愛いと思い込んでいるとしか思えない変なポーズをし、気持ちの悪い声を出す。
また、何かというと人に媚びたり、いい人アピールをしてくる腹黒さがあった。
そんなだからクラスメイトにも嫌われているんだが、それにはまるで気づいていないようだった。

私は筋の通っていないことが嫌いだ。
言ったことをやらないとか、やろうともしないとか、実力に見合わぬ自信だとか、他力本願だとか。
そして、嫌いなものに対しては攻撃的だ。
「何もかもがムカつく!!」という感情のみで攻撃を繰り出していたことは認める。
しかしそうであったとしても、これはあくまで私ひとりの闘いだった。
私が私の嫌いな子と闘っていたに過ぎず、ただ私が彼女より色々な面で優勢で気も強かったというだけのことなのだが、それが「いじめ」ということにされた

本来なら、私とその子と先生と、場合によっては親も含めて話し合って解決を目指すべき事案だと思う。
しかし何がなされたかというと、私は理由も聞かれないまま一方的に悪者扱いされて教室の後ろに立たされ、クラスメイト全員から、順番に罵倒されたのである。
もちろん、それを計画して実行させたのは担任の先生だ。
クラスメイトの誰もが私を悪いと思っていたとは思えない。
しかし、そのようなシチュエーションにおいて、そんなことを言える子はいない。
思ってもいないことを口にしなければならないなんて、戦時中かよ。
まるで、非国民をつるし上げる軍人と、それに従わざるを得ない民衆だ。
この時間が何の役に立ったのか、私にはさっぱりわからない。
言われたことは何一つ覚えていない。
私はただ無になって窓の外を見ていたような気がする。

さすがに今の時代にこんなことをする教師はいないと思うが、「いじめ」というものへの向き合い方は大して変わっていないのではなかろうか。
すなわち、いじめられている子のことばかり考えていないか?
いじめられている子に非などない、理不尽だ、かわいそう、気付いてあげなくちゃ、助けてあげなくちゃ。
その子がいかに酷い目に遭ったか、どう追い詰められ苦しんできたか・・・報道はそんなことばっかりだ。
じゃあ、いじめたほうは?
いじめたほうはどうしていじめたの?
その行動を事前に抑止する手立てはなかったの?
おふざけがエスカレートしていったパターンや、単なる愉快犯、そういった説明を耳にすることはあるけど、なぜそれで済ますの?
その行動の原因は何?
なんで根っこを探らないの?
どうして強く出た側が悪いと決めつけるの?
内容が理にかなっていないことを強行するのはもちろんよろしくない。
でも、その理由をなぜ追求しないの?
単に押さえつけて罰することに何の意味がある。
そんなもの根本的な解決にはならないし、逆に根に持たれる可能性のほうが高い。
こちらを知ろうとしてくれないヤツの言うことなんか聞くかよ。
100%悪いと決めつけられて、素直に反省する子などいるものか
反省したとみせかける裏表のある子になるか、失望して闇堕ちするか、どっちかだ。
「やり方は悪かった」と、おそらくいじめた側の子のほとんどが思っている。
その小さくとも確かにある良心に働きかけないでどうする!?
それなくして本当の解決などあり得ない。
それなのに、その小さな希望を潰してしまうんだよ。
おまえは悪だと決めつけて。

まあ、私はいじめられっ子とはされたものの、いじめたという自覚はないので、本当にいじめをやった子たちの心の内を代弁することはできない。
しかし、大きな力によって有無を言わさず「悪」とされ、こいつに石を投げつけることが「善」であるとされた経験は、私にひとつの価値観をもたらした。
「いじめる側が必ずしも悪いとは限らない」という信念だ。
そして私はそれを発信せずにはいられない。
命や心が守られるべきものであるなら、それはいじめる側であろうといじめられる側であろうと、平等でなければおかしいではないか。
まずは命を救う。それはもちろんそうだ。
しかしそのあとは、心を救えよ。双方の。

ちなみに、クラスメイト全員に罵倒された日のことを、私は家族に報告しなかった。
辱めを受けたような気がしていたのだと思う。
はっきりと覚えてはいないが、プライドが許さなかったのだろう。
私がそんな目に遭うなど、夢か幻だと思い込みたかったのかもしれない。
ところが、当時の教師が何を思ったのか30年近く経ってから私の母親に打ち明けてしまった。
子供たちにいじめのことを学ばせるいいチャンスだった。お嬢さんは強いから大丈夫だと思った」
母親激怒。
まあ・・・そりゃそうだわなぁ。
なんで暴露したのかはわからない。
それなりに反省があったのかねぇ?
見込み通り私は強かったもんでへこたれなかったけど、もし潰れてたらどうするつもりだったのか・・・。
補足をすると、この教師自体が過去にいじめを受けていたという経緯がある。
つまり、完全に「いじめられる側視点」だったわけよね。
いじめる側が100%悪いってやつ。
一言も聞かれてないからね・・・なぜいじめをしたのか。
いじめてないんだけどさ。

最後に、念のため付け加えておくが、壮絶ないじめを受けて自殺に追い込まれた人やその家族の痛みがわからないということではない。
そんなの辛いに決まっている。許せるわけがない。
しかし、このエッセイにおける論点はそこじゃない。
いじめを受けた側にだけ寄り添っていても、いじめは減らないということが言いたかった。
いじめをするヤツが悪だと思うなら、なぜ悪になったのかを掘り下げなければ何も解決しないし、同じパターンが何度でもどの世代でも繰り返されていくだけだよと。
弱者に寄り添い、同情を誘い、共通の敵をみんなで袋叩きにするような報道ばっかりだもんねぇ。
そんな伝え方をしているうちは、何も変わらないさ。

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