自分から縁を切った人が、一人だけいる。
仲が悪かったわけじゃない。彼女の良いところもたくさん知っている。
一緒にいて楽しかったし、随分笑い合った。
彼女は作業の手を抜くことはなかったし、新しいことを覚えるのも早かった。
また、彼女は料理が得意で、その知識には何度も助けられた。
私と彼女は仕事仲間だった。
同じ業務を曜日で担当していたため、普段顔を合せることはない。
ただ、締め日だけは机を並べて働く。会うのはその時だけだ。
私はその日が好きだった。
毎回、当月におけるお互いのしょうもないミスを指摘し合って、どうしてこんな阿呆ができたのかと腹筋も顔筋も限界まで酷使するのが愉快でならなかった。
けれど、彼女は無理をしていたのかもしれない。
あるいは、途中から何かが変わってしまったのだろう。
あるとき、彼女から電話がかかってきた。
「明日代わってもらえないかな」
体調が悪いと言っていたような気がする。
これといって思うことはない、代われるのだから代わってやる。
ところが、そう日の経たないうちにまた電話がくる。
「明日代わってもらえないかな」
やはり具合が悪いと言っていたように思う。
私は、代われるから、代わる。
この時の私の心境は、正直に言えば「また?」だ。
体調を心配したりはしなかった。
だって私は優しくないから。
ところが、次の電話は「明日代わって」ではなかった。
「しばらく代わってもらえないかな」
通院だの入院だの言っていた気がする。さすがに驚いてあれこれ訊いたはずだが、具体的な理由はまったく覚えていない。
「しばらく」がどのくらいなのかも曖昧なままだったと記憶している。
そうしてその後、彼女は音信不通になった。
どのくらいの間そうだったか・・・。
私は出勤日数が倍になり、収入が扶養控除の枠を超えてしまうことが気になり始めていた。
上司に、事あるごとに「どうなっていますか」と問うが、なしのつぶてだと返される。
そんな折、彼女は突然戻って来た。
締め日、彼女は以前と何も変わらない様子で、「ごめんね~」と仕事を始めた。
健康面のことに首を突っ込むのもどうかと思ったので、
「具合が悪かったんだろうけど、仕事なんだし、連絡はしたほうがいいよ」
と言うと、「うん、そうだよね」と返された。
それで「元通り」にされる。
釈然としないものがあった。
が、「元通り」も束の間。
休日にくつろいでいると、職場から電話がかかってきた。
「彼女が来ない。今すぐ来れないか」
無断欠勤だ。
私は急遽出勤した。
その日の夜、彼女から電話がかかってくる。
「ごめんね。母親の具合が悪くて」
「連絡くらいはできるでしょう」
「ごめんね」
彼女は、ただ「ごめんね」を繰り返す。
うんざりして、一言でも「いいよ」と言うと、途端に別の話が始まって辟易とした。
「休むなとは言わないけど、連絡だけはちゃんとして」
「うん。そうだよね」
もう、悪い予感しかしない。
私は、休みの日でも、職場から電話が来るのではないかと落ち着けなくなっていた。
そうして、思った通り電話は鳴るのだ。
次の休みにも、その次の休みにも。
その間も、夜になればまた彼女から電話がかかってきた。
最初のうちは取ったと思う。
彼女はとにかく謝って、「迷惑かけてごめんね」「もうしないから」「友達でいて欲しい」「仲よくして欲しい」と言う。
けれど、舌の根の乾かぬうちにまた同じ事が起こる。
何度耐えたか忘れたが、ついに私は、夜の電話を取らなくなった。
ある夜、いつもより早い時間に帰宅していた旦那が、電話に出てしまった。
当然ながら私に継ごうとする。
私は、「出ない」と言った。
旦那は驚いたが、継がずに対応してくれた。
彼女とどういうやり取りをしたのか、詳しいことは聞いていない。
だから、何が決め手になったのかはわからない。
ただ、それ以降、彼女からの電話はなくなった。
職場も、彼女をクビにした。
まあ、そうだよなと思う。
彼女とはそれっきりだ。
ひょっとしたら、彼女は何らかの助けを求めていたのかもしれない。
だが、それは発信されなかった。
発信されないSOSなど、私は拾わない。
発信できないやむを得ない理由があるならアンテナも張ろうが、そうでないなら捨て置く。
何も、私は「助けてやらない」と言っているわけではない。
助けが必要なら求めろと言っているのだ。
例え何らかのハンデがあっても、頑張って自尊心を高めている人たちがたくさんいるということを私は知っている。
頼まれもしないのに手助けをするのは、エゴじゃないのか。
だから私は助けない。
求められるまでは。
「あんたは強いから、弱い人の気持ちがわからないのよ」
むかし、母親にそう言われたことがある。
確かに、気持ちはわからない。
とりわけ、私にはできないことを、時により平然とやってのける心理は全くわからない。
「弱い人」は、自分を護るために、他者の心を傷付けることがある。
傷付ける勇気はあっても、SOSを出す勇気はない?
そんな気持ち、わかるはずがない。
私には、SOSも出せない相手に「友達でいて欲しい」と伝える気持ちもわからない。
「仲よくして欲しい」と思う相手を繰り返し傷付けてしまえる心理もわからない。
言うなれば「弱い」がわからない。
だって、こんなにも強いじゃないか。
私は、彼女と縁を切ったことを後悔はしていない。
ただ、そうなってしまったことは、今でも残念に思っている。
何を抱えていたにせよ、一緒に笑い合った彼女は、本物だったと思うので。