私の父方の祖父は、画家だった。
が、結構前に死んでしまった。
最後はボケて徘徊を繰り返し、病気もあって施設に入れられ、そこで誰のこともすっかり忘れて、逝った。
それなりに悲しかった。
私はそんな程度の人間だ。
身内に画家がいるという人はあまり多くないだろう。
画家として生きていける人など、さほどいないからかもしれない。
では祖父はそれが出来ていたのかと言えば、全く出来てはいなかった。
祖父は生活に関わる一切を放棄し、ただ好きに生きた人だった。
「それを支えた人がいたからだ」と言いたいところだが、祖父の場合はそうとも言いがたい。
とんでもなく不衛生で、身勝手で、我が強く、頑固で、生活力はゼロ、しかしながらプライドだけはクソ高い厄介なジジイだったので、ミーハー心で結婚した祖母が面倒見きれるはずもない。
ゆえに祖父の生活は、言うなれば在宅ホームレスのようであった。
「芸術家」なんてカッコよさげだが、実態はひどいものなのだ。
けど、私は祖父を嫌いにはなれなかった。
祖父の才能は、すべてのマイナス要素を黙認させた。
それだけ、祖父の絵は素晴らしかったのである。
祖父は、油絵の写実画家だった。
正確には、動物画家だ。
無論、なんだって描けるわけだが、受ける仕事はすべて動物の絵だった。
祖父は仕事をする必要があったわけではない。
家族も「しなくていい」と言っていた。
「僅かばかりの金のために描きたくもないものなど描かなくていい。自分の描きたいものだけ描いてくれ」
盆や正月などで集まるたびに身内はそう言ったが、その思いは最後まで届かなかった。
祖父は金が欲しかったのだ。
鳩のエサや葉タバコ、左翼的な活動をするための金だ。
祖父は第二次世界大戦で中国へ連れて行かれ、そこで銃撃戦を体験した。
左翼と聞くと物騒な感じもするが、戦地での祖父の気持ちを思えば、その決意に口を挟むことなどできるはずもない。
元よりぐうたらな祖父は、つまらない仕事と活動で手一杯になり、本当に描きたい絵など、おそらく片手で数えられるほどしか描かずに死んでいった。
中学に上がるまで、私はよく祖父の部屋に通っていた。
今にして思えば、あのゴミ溜めよりひどい部屋によく入れたと思う。
何をしていたのかは、あまり思い出せない。
ただ、万年布団、小さなテレビ、画材、木製のパレット、貝殻、描きかけの絵、胸像、曇りガラスなど、そこで目にした様々なものを鮮明に覚えている。
部屋へ行くと、祖父はよく、鳩にやるエサを準備していた。
喉に詰まらせてはいけないからと、乾燥トウモロコシをペンチで砕くのだ。
毎朝同じ時間に、必ず同じ服、同じ手提げで橋の下へ行き、鳩にエサをやる。
私は、一時それに同行していた。
何日も続けると鳩が私を覚え、橋に辿り着く前から出迎えたり、私の手から競ってエサを食べるようになった。
祖父でなければ、誰がそれを私に体験させただろう。
このみかんの木にはアゲハチョウが卵を産みに来るから、実はならないけど大事にしなくちゃいけない。
葉の裏に卵がある、これは赤ちゃん幼虫、こっちが成虫、これがサナギ。
あれはヤブカラシといって、これがあるとアオスジアゲハが来るんだよ。
他に誰がそれを教えてくれた?
黒糖のおいしさ、ライチという食べ物、的の狙い方、戦時中の暗号、磨りガラスにセロハンテープ、キジバト、日本タンポポ、モノらしさ人らしさ、褒め殺し。
それなのになぜ私は、描かせてあげなかったのだろう。
描かせてほしいと何度も言われていたのに。
「おじいちゃんのモデルは止まってなくていいの。動いてていい。印象で描くから」
大人になる手前の、不安定な顔を描きたいと。それは今しかないからと。
なんで私は描かせてあげなかったのだろう。
「約束だよ」と何度も言われたのに。
あんなに通っていたくせに。
中学、高校というのは、気難しい時期なんだろうと思う。
その自覚はなかったが、そうでなければこの裏切りを説明することはできない。
気乗りしなかった。おそらくはただそれだけのことだ。
それだけのことのために、生涯悔やみ続けるのだ。
私の父は、「画家の息子」として見られることに嫌気が差して、絵を描かなくなったという。
「努力の結果を血筋のおかげと評価されてたまるか」と。
尤もだと思う。
だが、私は違う。
私は嬉しい。
「絵が上手いのは、おじいちゃんが画家だからだね」
そうだよ!
「おじいちゃんに描いてもらえば?」
そうだね!
「プレッシャーじゃない?」
とんでもない!
私は、一個人としてその才能をリスペクトしているんだ。
だから、それは私の誇りなんだよ。
おじいちゃん。
見舞いにも行かずごめんね。
でも、私が誰かもわかんなくなってるおじいちゃんに会ったほうがよかったのかどうかは、今でもわからないままだ。
私はその程度の人間なんだよ。
でも、おじいちゃんは多分そんなことは気にしない。
「みんな同じなんて一番つまんない。右へ行けって言われたら左へ行っちゃうね」
人としては決して倣えないけど、そういう生き方が私は好きだった。
ちょうど「不安定」な頃合いの息子を見ていて思うんだ。
そんな身内がいたことを、この子は知らないんだなぁって。
健在であったなら、きっとこの子を描いてもらったのに。
そうして、その特異な感性に触れて、目の前でサラサラと自分を写す鉛筆に魔法を掛けられてほしかった。
人と違うってすごいことなんだと知ってほしかった。
その血が自分にも流れているんだと、ワクワクさせたかった。